
那須与一の兄、十郎為隆(ためたか)を始祖とし、一族として那須家を支えた千本氏直系の断絶は当主、那須資晴(すけはる)と千本資俊(すけとし)、資政(すけまさ)父子の路線対立による粛清だったことは前回紹介した。これには那須家重臣として台頭してきた大田原氏、大関氏らが関与していて、“逆臣誅殺”を提案、直接手を下した。千本領は大関高増(たかます)、福原資孝(すけたか)、大田原綱清(つなきよ)の3兄弟で山分け。この3人は大田原資清(すけきよ)の長男、次男、三男である。同じ那須七騎でも家臣の大関、大田原氏が勢力を増し、一族だった千本氏は没落していった。
直系断絶後の千本氏は茂木氏から養子に入った義政が家系を継ぐが、この後も苦難が続く。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しなかった那須家に従っていたため、1590(天正17)年、所領没収。翌年、旧領2070石を返してもらったが、1597(慶長2)年、宇都宮氏取り潰しに巻き込まれ、また所領没収。関ケ原の戦いは高齢の義政に代わり、その長男、義定が東軍に従軍。徳川方に母を人質に出して旗幟(きし)鮮明にした。千本氏にとって雌伏10年、ようやく巡ってきた再起の機会。小田原征伐のときの失敗を繰り返すわけにはいかない。
義定は黒羽城(栃木県大田原市前田)守備に参加。城主、大関資増(すけます)とともに三の丸を守り、宇都宮では徳川秀忠から郷義弘(ごうのよしひろ)の名刀が贈られた。
3300石の旗本としての足場を固めた。義定の孫、義等(よしとも)に子がなく断絶したが、義等の弟、和隆(なおたか)の家系が旗本として明治維新まで続く。
一方、千本氏は資俊の叔父の系統もある。福原氏から養子に入った千本資勝(すけかつ)は、関ケ原の戦いで大田原城(大田原市城山)を守る皆川氏の部隊に所属。その功績の加増もあり、880石を知行した。この系統は1670年代に断絶した。
栃木県茂木町の町中心部から外れた山中に茂木城跡がある。軽自動車1台がやっと通れる急な坂を上った標高240メートルの山頂に自然の地形を生かした山城が築かれていた。長く千本氏の居城だったが、落城は千本資俊らが誅殺されたときと伝わる。
■千本義定(せんぼん・よしさだ)1565~1623年。千本義政の長男。関ケ原の戦い後は旧領2070石に加えて300石加増。2年後にも1千石の加増を受けた。大阪の陣でも活躍。