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高田純次さん 小、中時代は何度も入賞も…「絵の道は難しいなと」 - NewStter

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2026.07.06|コメント(-)トラックバック(-)

高田純次さん 小、中時代は何度も入賞も…「絵の道は難しいなと」


 【話の肖像画】タレント・高田純次さん(67)

 〈戦後間もない昭和22年、東京都調布市で生まれた。誕生日は1月21日だが、1を7と読み間違って、20歳近くまで1月27日生まれと信じていた「おおらかな家庭」。しかし、少々複雑だった〉

 俺を産んだ母親は、3歳のときに亡くなりました。だから、ほとんど覚えていない。亡くなる前に父親に連れられて病院に行ったことは覚えています。ベッドに女の人がいた。母親でした。その後、父親が再婚して新しい母親が来たんです。祖母としょっちゅうけんかしていたのは覚えています。俺は母親が2人目だろうが、嫁姑(しゅうとめ)のけんかがすごかろうが、何ともなかったんですけどね。そんななか、都立高校に進んだんだからエライとは思いますよ。

 数年前、俺を産んだ母親の弟の葬式があって、参列したときに母親の20代のときの写真をくれたんです。初めて見ました。きれいな人でしたね。俺の顔を見れば、それは分かるかもしれないけど(笑)。

 〈小、中学校時代は絵の得意な少年だった。埼玉・桶川に住んでいた親戚(しんせき)のおじさんに絵を教えてもらい、展覧会にも何度も入賞した。成績もよかったが…〉

 大学受験の失敗がトラウマと言いましたが、高校も落ちているんです。当時、都下の都立トップは立川高校、次が国立高校だったので、国立を第1志望で受けたら落ちました。学区内で一定の点数を取っていればほかの高校に入れたので府中高校に行きました。

 絵を描くのは好きで、映画雑誌に女優の絵を応募したりしていましたが、佳作止まり。入選する絵は、やっぱりすごくうまい。俺には飛び抜けたアイデアがなかった。絵の道は難しいな、と思っていました。

 〈2年連続で大学受験に失敗。東京デザイナー学院に入学する〉

 大学が全部だめになってしまったから、専門学校に行くか、と。グラフィックデザイナーになろうと思っていました。かなり真面目に通っていました。途中から大学に移るやつもいたけど、俺はすでに1浪しているから正直、そんなテンションはなかった。

 卒業後はデザインでもグラフィックでも、どこかの会社の社員になりたかったけど、就職口がなかった。それで写真会社にアルバイトで入り、教習所で顔写真を撮ったりしていました。そんなとき、舞台の仕事をしている知人にパンフレット描きを頼まれました。その人に誘われ、見に行ったのが自由劇場の「マクベス」。こんな芝居があるのか、すげえなと思ったね。

 〈演出家の串田和美、俳優の吉田日出子らが作った自由劇場は1960年代の小演劇ブームの先駆け。後に入団することになる〉 (聞き手 小川記代子)

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2014.03.25|コメント(-)トラックバック(-)
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